荘司佐藤基治・乙和・継信・忠信墓碑群(県指定重要文化財)


 奥の院薬師堂の境内に見られる板碑群は、信夫荘司一族の墓域と伝えられ、中央に佐藤基治・乙和、右側に継信・忠信の墓碑といられる石碑があり県指定重要文化財に指定されております。凝灰岩の奥州型板碑を主に大小60数基が安置されています。また、佐藤継信と忠信の墓碑に関しては、中世に広く見られた板碑と呼ばれる供養塔で、石塔の角が無いのはかつて熱病の際に飲むと治るという言い伝えがあり削られたためで、2人のような勇猛な武士にあやかりたいとする信仰がありました。



佐藤基治・乙和墓碑

佐藤基冶・乙和の墓碑。すぐ傍にある古木は、乙和御前の悲しみ、そして母情が宿ったと言われ、つぼみのまま開かずに落ちてしまう椿「乙和の椿」がございます。



継信・忠信墓碑

佐藤継信と忠信の墓碑。墓はすべて板碑で作られており、かつてこのお墓の石を削って飲むと病が治ると信じられており削られた跡が見られます。

荘司佐藤一族について

※石那坂の舘に立つ基治(名取春仙画より)国分嘉子米吉氏寄贈
信夫の地を治めていた佐藤基治。
 奥州藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを統治していた豪族佐藤基治は、信仰心が厚く、居城とする大鳥城から眼下に望む薬師堂を改築し、伽藍を多数建立し境内を整えたとされています。
 藤原秀衡は、私有地の管理を基治に任せて、荘園管理の職名を荘司と称したので「佐藤荘司」と呼ばれておりました。また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれていたそうです。
源 義経に対して忠誠を貫いた義経四天王、佐藤継信・忠信。
 源平合戦において、佐藤基治(大鳥城主)は、藤原秀衡の命を受け、息子の二人、継信、忠信兄弟を源義経に付き従わせました。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢を義経の身代わりとなって受け戦死、また弟の忠信は、義経が頼朝から追われる身になるなるが、僧兵に攻められそうになったところ、機転を聞かせ自ら自分が義経と名乗り僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させて流ことができたが、後に潜伏しているところを襲われ壮絶な死を遂げたそうです。(諸説あり)
※「瑠璃光殿」所蔵歴史書より
※乙和を慰める若桜と楓(名取春仙画より)
乙和の悲しみを慰めるため
若桜と楓のとった行動。

 息子二人の死を知り嘆き悲しむ年老いた義母乙和(おとわ)御前の様子を見ていた継信と忠信の妻たちは、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を着装。若桜は長刀を、楓は弓矢をたずさえ、勇ましい武将の姿になり、乙和の前に現れ「継信・忠信ただいま元気で凱旋しました」と言い、乙和元気づけたといいます。このお話は、古くは幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本集「やしま」などでも語られています。
 境内奥の院には、この乙和御前の深い悲しみと母情が宿ったかのように、花と開かずに蕾のままで落ちてしまうことから、いつしか「乙和の椿」と呼ばれる古木がございます。

福島県福島市飯坂町平野字寺前45
TEL(024)542-3797